イチジクとの出会いは生まれたときから
ぼくが住んでいる愛知県蟹江町はもともとイチジクの一大生産地でした。
昭和初期の隆盛期には「イチジク列車」と呼ばれる貨車が、当時の国鉄蟹江駅から名古屋駅まで運ばれていたそうです。
しかし、昭和34年の伊勢湾台風によって状況は一変します。
蟹江町内は折からの高潮によって水没し、当然イチジク畑も大きな被害に遭います。
塩害の影響もあり大半のイチジク農家さんが離農され、ぼくが子供の頃にもまだまだあったイチジク畑はどんどん減ってしまいます。
2025年現在は10数軒の農家さんが生産を行っていますが、日本全体が高齢化社会に突き進む中、イチジク農家さんたちも例外ではありませんでした。
また、「後継者がいない」という記事をあちこちで目にするようになります。
IT企業が突然農業をはじめることに
社会人1年目は大手広告代理店の孫会社で展示会や広報施設の企画のサポートをしたり、建築模型を作ったり、水族館や科学館のメンテナンス作業をしていました。その後、ドライバーやパソコン教室のインストラクター、インターネットプロバイダーのサポートやサーバー・ネットワーク管理、ウェブサイト制作、Webアプリケーション開発など、何でもやりました。
節操がないと言われそうですが、就職氷河期世代でしたので、とにかく自分がやれることはなんでもやりました。じゃないと生活できませんから。
会社が突然中古自転車の買取と販売の事業を行うことになり、ウェブサイトを作りましたが、事業の拡大とともにシステムもどんどん大きくしていって、気がつけばECサイトまで自前で開発していました。実店舗も26店舗まで拡大。これがまたいわゆるブラック企業で、泊まり込みや寝ないで九州にトラックで単独出張したりして、結果その会社の偉い人と揉めて退職。
次に入った会社はIT企業でしたが、ここが大きなターニングポイントとなったと言っても過言ではありません。
入社して10年以上が経過したある日、突然会社が農業をはじめることになったのです。
農業との出会い、農業での出会い
その農業は詳しくは書きませんが先進的な取り組みで、いわゆる施設栽培でした。
築50年は経とうかという重量鉄骨のビニールハウスのリノベーションを自分たち社員で行いました。
抜根し草を刈り草を取り草を刈り草を取り草を刈り…整地を振動ローラーで行い、サビサビの鉄骨を塗装し、配管のための穴を掘り、塩ビパイプでひたすら施工し、半年近くかけて農場がオープン。
オープン後しばらくは主にECの担当でしたが、産直ECでは泣かず飛ばずで、結局販路開拓のためほとんど未経験だった営業をすることに。
また、それだけでなく近隣農家さんと仲良くさせていただく機会にも恵まれました。
近隣農家さんと話をするときに、ぼくは会社員だったため、どうしても会社の都合で進められない案件が出たりして「すみません…」と謝ると、「うん、僕はそれで独立したんですよね。組織で動くとどうしてもやりたいことがやれなくなるから」という返答に、その時は「まぁそうですよねぇ」などと返しましたが、これがずっと頭の片隅に強く記憶されることになります。
また、その農家さんは地元のためにマルシェを開いたり、期間限定の産直売り場をつくったり、県・町・農協を巻き込んで生産者部会を立ち上げたりと、ぼくよりも若いのに精力的に活動されていて、ほんといろんな刺激を受けました。
施設栽培以外にもお米や露地野菜も有機で栽培していましたので、刈払機による草刈り(資格も持ってます)をしたり、田車による草取り、チェーン除草機による草取り…草取りばかりだな…をしていました。
人生の折り返し地点に…
今では「人生100年時代」と言われるようになりましたが、ぼくも気がつけば50歳を迎えようとしていました。
これから体力も衰えていくだろうと考えると、身体を動かした方が健康で長生きできるのではないか?と思いました。数十年も年上で元気で高齢な農家の諸先輩方を見ていると特にそう思います。
また、農業には定年がないということを考えると、今の会社で定年まで勤め上げた先に何があるんだろう?という漠然とした不安がよぎるようになります。
そこでセカンドライフ・第二の人生を考えるようになります。
ついに始まるか!?イチジクストーリー
- 生まれ育った地域がかつてイチジク生産地だった
- 努めていた会社が農業を始めた
- 農業と出会い、刺激を受ける農家さんに出会う
- そして人生の折り返し地点に…
こんな状況の中で居ても立ってもいられず、イチジクの生産を始めよう!ということになりました。